世界有数の大都市として進化し続ける街、東京。その東京の中心、まさに“おへそ”に位置するのが、ビジネスとアートの街「京橋」と、随所に江戸情緒を残す「日本橋」エリアです。徳川家康が江戸幕府を開いてからおよそ400年。天災、戦災を乗り越え、発展し続けてきた京橋・日本橋エリアは、商業の要所として日本経済を支えてきた地でもあります。

今回は、京橋・日本橋エリアの江戸時代から現代までの移り変わりを見て参りましょう。

また、記事の最後には、現在も立ち寄れる史跡スポットをご案内しています。街歩きの際は、ぜひご活用ください。

◆江戸時代◆ 京橋・日本橋は江戸の玄関口

日本橋図絵
『日本橋図絵』
*国立国会図書館WEBサイトより転載

「京橋」、「日本橋」の地名の由来、歴史

1603年(慶長8年)江戸幕府が開かれたのと同じ年に平川に木橋が架けられました。これが、「日本橋」です。日本橋という名称の由来は諸説ありますが、「日本の中心となる橋」という起源で自然と日本橋と呼ばれるようになったとする説が最も有力です。

翌年1604年(慶長9年)には、2代将軍・秀忠により、日本橋が全国につながる「五街道(東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道)」の起点として定められました。特に利用者が多かったのが江戸・日本橋から京都・三条大橋までを繋ぐ「東海道」です。現在の京橋三丁目と銀座一丁目の間を流れる京橋川に架かる橋を「京橋」と名付けられた由来は、江戸から京都へ向かう際に最初に渡る橋だったからであると言われています。

格式高い「擬宝珠」が掲げられた御普請橋

江戸の町にかけられた、「京橋」「日本橋」「新橋」の3つの橋は、江戸幕府が造り、修復費用も負担する「御普請橋」でした。そのため、幕府直轄の権威のある橋として、欄干には「擬宝珠(ぎぼし、ぎぼしゅ)」が配されていました。

擬宝珠とは、橋の欄干や親柱、神社の手すりなどの頂部につけられる“玉ねぎ”のような形の装飾で、格式の高さを象徴するものです。仏教の宝珠に由来し、格式を表すだけでなく、雨などから橋や手すりを守る役目もあります。

現在、京橋川は埋め立てられたため、かつての橋の姿を見ることはできませんが、3基の親柱は中央区京橋の歴史スポット*として残っています。

*この記事の最後でスポットのご案内をしています。

◆明治時代◆ 京橋・日本橋が近代化を牽引

『京橋』1896年(明治29年)
画像:『京橋』1896年(明治29年)
*京橋図書館所蔵

明治時代になると、日本橋川沿いに銀行業や保険業、運送業といった新たな産業が発達します。

特に、京橋・日本橋周辺地域では諸外国からの玄関口として舟運の出入りが盛んになりました。河岸に、原材料や商品の備蓄のための倉庫が建ち並ぶ一方、これまで擬宝珠内の河川や道端で開かれていた市場は、徐々に数を減らしていきました。1872年(明治5年)に大規模な火災が発生すると、日本橋川や京橋川一帯の建物が全焼したことを機に、河川沿いにあった土蔵造りの建物は、火事に強い煉瓦造りに建て替えられ、道路幅の拡張や路面電車の開通など、街並みも西洋風に整備されたのです。

1873年(明治6年)に架橋された日本橋も西洋式の木造トラス橋でした。

◆大正時代◆ 近代のビジネス街を襲った大震災

『日本橋方面の慘状-日本橋より見たる三越呉服店-』1923年(大正12年)9月
画像:『日本橋方面の慘状-日本橋より見たる三越呉服店-』1923年(大正12年)9月
*京橋図書館所蔵

新聞社や印刷所も立地するようになり、近代のビジネスの中心街だった京橋・日本橋エリアを1923年(大正12年)「関東大震災(大正関東地震)」が襲いました。周辺地域を含め、ほぼ全域が焼失する甚大な被害に見舞われ、命が助かった人々も家族や住む家、そして、日常生活を失いました。

震災により都市のもろさが浮き彫りになったことを受け、焼け跡を強い都市に再建するための帝都復興事業計画が立てられました。その計画に従い、幹線道路の整備や区画整理、河川の改修や架橋などが行われ、同時に、京橋・日本橋を含む中央区が高層化する第一歩となるビル建築が始まったのです。

◆昭和時代◆ 戦争、復興、高度成長~再び、経済と文化の発信地として

『久松小学校』1957年(昭和32年)頃
画像:『久松小学校』1957年(昭和32年)頃
*京橋図書館所蔵

関東大震災から22年後の1945年(昭和20年)3月10日、東京大空襲により一帯は火の海と化します。300機以上の爆撃機が飛び回り、上空から焼夷弾をばらまくと、強固に造られた煉瓦造りの建物さえ跡形もなくなり、震災後に復興した街並みは再びがれきの山になってしまいました。そして、同年、終戦を迎えます。

1947年(昭和22年)に京橋区と日本橋区が合併されて中央区となり、京橋・日本橋エリアは、驚くべきスピードで復興が進んでいきます。

また、関東大震災によって焼失・倒壊した校舎を不燃性の鉄筋コンクリート造りで再建した「復興小学校」の多くは、この戦争を乗り越え、戦災者収容の住宅に利用されたり、町民の地域交流の場に活用されたりし、戦後復興をサポートしました。

1952年(昭和27年)、京橋にブリヂストン美術館(現在のアーティゾン美術館)が開館。これを機に、画廊や美術館などが増え、たちまち美術や骨董といったアートの拠点となりました。

そして、アートやカルチャーだけでなく、多くの企業の本社が集まるビジネス街としても発展。日本経済の高度成長を象徴する場となりました。

◆平成・令和時代◆ 進化し続ける京橋・日本橋

大火や震災、戦争を経て、その度に復興、発展をし続けてきた京橋・日本橋エリア。

近年も市街地再開発が進むこの地では、江戸時代から商いを営んでいる老舗と新しい商業施設が隣接し、「懐かしさ」と「最先端」が融合する街の姿を見せています。

古き良きイメージを持ちながら、新しさを加えて進化し続けていく京橋・日本橋エリアにこれからも注目していきましょう。

訪れよう!学ぼう!情緒豊かな橋の歴史

ここまで、京橋・日本橋エリアの今昔をご案内しました。

ここからは、記事内でご案内した内容と繋がる、現存の史跡スポットを4カ所厳選してご紹介します。無料で誰でも気軽に立ち寄れるスポットばかりですので、ぜひ訪れてみてください。

京橋北詰東側の親柱

京橋北詰東側の親柱

詩人・佐々木支陰の字で「きやうはし」と彫られた石造りの親柱です。1875年(明治8年)に石造りのアーチ橋ができたときのものがそのまま残されており、橋の格式を象徴する擬宝珠もつけられています。通常であれば「きやうばし」が正しい表記ですが、濁点を付けると川の水が濁るということで、あえて「はし」となっています。江戸っ子の粋な洒落を感じる親柱です。

INFORMATION

スポット名 京橋記念碑
住所
所在地

京橋南詰西側の親柱

京橋南詰西側の親柱

「きやうはし」と同じく、1875年(明治8年)の石造のもので、擬宝珠もあります。姿形は同じですが、こちらはひらがなではなく漢字表記です。よく目を凝らすと京橋の「京」の字が「亰」になっていますが、これは明治期に、東京を「トウケイ」と呼ぶ時期があり、上方風の京という字を嫌い、亰の字を使っていたことに由来しているといわれています。

INFORMATION

スポット名 京橋の碑
住所
所在地

京橋南詰東側の親柱

京橋南詰東側の親柱

南詰東側の柱は、1922年(大正11年)に橋が架け替えられたときのものです。石とコンクリートでつくられたアールデコ調の親柱です。上部には照明が点灯するようになっており、大正ロマンを表すようなモダンなデザインが特徴です。親柱のある場所には、文明開化のシンボルでもある「ガス灯」や「銀座煉瓦之碑」もあります。

INFORMATION

スポット名 煉瓦銀座之碑とガス灯
住所
所在地
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【SHOKUIKI/京橋の歴史散歩】観光おもてなしスタッフがご紹介。「京橋の親柱」

日本橋 麒麟像

日本橋 麒麟像

木造トラス橋から、1911年(明治44年)に架け替えられた現在の日本橋は、石造りの二連アーチ橋であり、近代の交通手段に対応した歩車道分離型の道路橋でもあります。中央柱には麒麟像が設置されました。麒麟は伝説上の生き物で、争いのない平穏な世に現れるとされています。本来、翼がないとされている麒麟ですが、日本橋の麒麟像には勇壮な翼が付けられています。これには、「日本全国へつながる日本橋から飛び立つ」という意味が込められています。1999年(平成11年)には日本橋を含め、国の重要文化財に指定されました。

INFORMATION

スポット名 日本橋麒麟像
住所
所在地

まとめ

江戸、明治、大正、昭和、平成、そして令和。徳川家康がつくった江戸の城下町は、400年の時を経て世界に誇る大都市・東京へと発展しました。その中心地であり、経済と文化の発信地でもある京橋・日本橋エリアは、江戸から受け継がれた伝統と、革新し続ける文明が調和する唯一無二の街になっています。

時代と共に変化してきた「東京のおへそ」京橋・日本橋エリアにぜひ足を運んでみませんか?